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12/25/2015

目次

第1章 古府中


躑躅ヶ崎館跡

01.字躑躅ヶ崎
02.字梅翁


城下

03.字古八幡
04.字古屋敷
05.字中屋敷
06.字御馬屋小路
07.字土屋敷
08.字道上
09.字逍軒屋敷
10.字日影(上組/下組/西小路)
11.字大日影
12.字髙塀
13.字三角
14.字猪口
15.二ツ家
16.字鷹師町
17.字大泉
18.字中瀬
19.字富士川
20.字山ノ越
21.字大手下
22.字鍛冶小屋
23.字小山田
24.字相ノ原
25.字天久
26.字廣小路
27.字淸水
28.字峯本
29.字南小路
30.字長閑
31.字南宮
32.字大熊
33.字正永
34.字增山(含增山町)
35.字西田
36.字釜土
37.字竪道
38.字塔岩
39.字天神川
40.字御嵜
41.字宮前町
42.字御納戸小路

第2章 岩窪 



第3章 上府中 


01.愛宕町
02.元紺屋町
03.元城屋町(一丁目/二丁目/三丁目)
04.元連雀町
05.大工町
06.元柳町
07.新柳町
08.新紺屋町(一丁目/二丁目/旧三丁目)
09.東竪町/旧竪町
10.西竪町/新紺屋町三丁目
11.細工町(一丁目/二丁目)
12.東白木町/旧廣小路
13.西白木町/旧白木町
14.袋町
15.広庭町
16.橫田町
17.元綠町
18.元穴山町
19.久保町
20.御嵜町(旧手子町/御嵜町/八幡町)
21.疊町
22.元三日町
23.横澤町
24.相川町
25.新靑沼町

上府中三ノ堀



第4章 下府中 


三郭内

01.境町
02.竪近習町
03.橫近習町(一丁目/二丁目)
04.柳町(一丁目/二丁目/三丁目/四丁目)
05.山田町(一丁目/二丁目/三丁目)
06.八日町(一丁目/二丁目/三丁目)
07.三日町(一丁目/二丁目/三丁目)
08.上連雀町
09.下連雀町
10.鍛冶町
11.桶屋町
12.魚町(一丁目/二丁目/三丁目/四丁目/五丁目)
13.穴山町(一丁目/二丁目/三丁目/四丁目/五丁目)
14.工町(一丁目/二丁目/三丁目)

下府中三ノ堀(北部/東部/南部)


五丁下り(三郭外東部)

15.金手町
16.上一條町
17.下一條町
18.和田平町
19.城屋町

三郭外南部

20.綠町
21.若松町(旧西一條町/信立寺地内町)

三郭外西部

22.相生町/旧片羽町
23.泉町/旧西靑沼町

第5章 旧郭内 


北郭

01.橘町(橘町/北橘町/東橘町/内城)
02.日向町(旧森下小路/山手御門前)
03.花園町/旧御花畑
04.彌生町/旧櫻小路
05.水門町/旧先手小路
06.富士見町/旧裏先手小路
07.朝日町/旧新先手小路

二ノ堀北部


南郭

08.錦町/旧追手小路(一丁目/二丁目/三丁目)
09.紅梅町/旧山田町筋新道
10.常磐町/旧松原小路
11.春日町/旧中殿町(一丁目/二丁目)
12.櫻町/旧土手小路(一丁目/二丁目/三丁目/四丁目) 

二ノ堀南部


第6章 旧組屋敷地 


01.富士川町/旧長禪寺前
02.深町(北深町/南深町)
03.佐渡町
04.代官町
05.三吉町
06.廿人町
07.百石町(旧百石町/小砂町/田町)
08.穴切町

第7章 西靑沼町・壽町 


01.西靑沼町
02.壽町/旧飯田新町

第8章 太田町・湯田町・東靑沼町・朝氣町


01.太田町/旧一蓮寺地内町
02.湯田町
03.東靑沼町
04.朝氣町 

第9章 伊勢町 


01.伊勢町
02.北大路
03.南大路
04.西二條通
05.西一條通
06.住吉通
07.東一條通
08.東二條通
09.東三條通
10.東四條通
11.東五條通
12.東六條通
13.東伊勢町

第10章 飯田町


2/04/2015

上府中三ノ堀を辿る

甲府城の三ノ堀には上府中のものと下府中のものとがあるが、今回は上府中のものを紹介したい。

上府中の三ノ堀は以下の図の様に周らされており、大まかに言えば二ノ堀の更に北側を南北に区切る東西の堀である。

東端の一部を除いて大半が水路、溝として残存しているものの、明治初期の埋立により堀幅は狭くなっており、また、近現代の都市化の進行に伴って暗渠化された場所も多い。

また、堀内側には土手が築かれていたが、明治初期に大きく崩され堀の埋立に用いられた。大正期までは土手跡が残存していた場所もあったらしいが、現在ではその痕跡を見出すことは難しい。
山梨県立博物館の資料に大正期の市街地図
実測甲府市街全図
があるが、これに拠れば大正期には堀内側に灰色で示された帯地が伸びている所が多く、「墹々(ママ)」と凡例に記されている。墹々は即ち崖地であり、当時は土手の痕跡が残っていたことが伺える。

さて、上の地図に町堺線を重ねてみると下の通り。
地図1

 三ノ堀東端は、元城屋町一丁目の南端で二ノ堀に接し、そのまま元城屋一丁目町東側に沿って北上する。この部分は埋立により完全に喪われている。
写真1:地点イより南方向
写真1の道路右側(西側)駐車場の辺りを前後に(南北に)三ノ堀が周らされていたものと推定される。
写真2:地点イより北方向


写真2は写真1の逆方向を臨んだものである。上写真に続いて写真2の道路左側(西側)のアパート附近が三ノ堀跡地である。
写真3:地点ロより南方向

藤川と近接する地点ロ南側から遺構が現れ、これより西、相川に至るまでは小規模な水路として現存するが、山の手通を潜って大工町に至るまでは暗渠化され、道と同化している。
写真3の手前から奥へ前後に(南北に)伸びる産婦人科の駐車場敷地が暗渠化された三ノ堀跡であり、道路奥左側(東側)の白柵手前で東曲し、藤川に注いでいる。
写真4:地点ロより北方向

写真4は写真3の逆方向を臨んだもので、産婦人科駐車場と山の手通との僅かな区間のみ開渠となっている三ノ堀跡の姿が伺える。この先、堀跡は山の手通を潜り、奥に見えるマンション右側(東側)へと北進する。

山の手通は、この三ノ堀跡を越えて元城屋町通との交差点に至るまで急な坂道となっている。愛宕山隧道を西へ抜けて元紺屋町交差点に至った時によくお判り頂けるであろう。これは三の堀で東側を囲まれた元城屋町が、相川沿いの愛宕町北部よりも一段高くなっていたためである。
地図2
写真5:地点ハより南方向

写真5は山の手通歩道より三ノ堀跡を南に臨んだものである。堀を挟んだ高低差、即ち、右側(東側)の元城屋町と、左側(愛宕町北部)との高低差がお判り頂けるだろうか。
写真6:地点ハより北方向
写真6は写真5の逆方向を臨んだものである。山の手通が三ノ堀跡を跨ぐ部分にコンクリート製橋梁が架けられている。
写真7:地点二より南方向

写真7は三ノ堀が西へ進路を変える地点ニより南を臨んだものである。山の手通を潜った以北は暗渠化され、道路の一部と化してはいるものの、10数m置きに写真の自転車後方にある様な金網蓋が設けられており、水が流れている様子が伺える。
写真8:地点ホより東方向
写真9:地点ホより西方向
写真10:地点へより西方向
写真11:地点ト東側より西方向

写真8は、地点ホより東側を臨んだものである。堀跡の道路右側(南側)のみ舗装の様子が異なることがお判り頂けるだろうか。
写真9は、写真8の逆方向を臨んだものである。堀跡は暗渠のまま元城屋町通を潜り西へ向かう。写真の横断歩道の附近が堀跡である。
写真10は元城屋町通を潜った先、地点へより西を臨んだものである。手前から奥へ伸びる道路の左側(南側)が暗渠化した三ノ堀跡地である。
写真11は、地点トの手前(東側)より西を臨んだものである。堀跡の幅はより細くなり、これより以東は溝と言って差し支えない幅となる。

写真12:地点ト西側より東方向

写真12は、地点ト西側より東を臨んだものである。道路手前の鉄蓋の下が三ノ堀跡地である。

写真13:地点トより西方向

大工町は三ノ堀によって南北に分断されて居り、明治初期の三ノ堀埋立の後も地籍上は南北二つに分断されている。


大工町は甲府城築城以前、即ち武田城下町の一であった町であり、南北通りの町であるから、本来は西隣の疊町や南隣の元連雀町の様な領域をしていた筈である。

甲府城築城時の三ノ堀造営時に町内が分断されるのだが、明治初期に三ノ堀及び土手を崩した際、大工町の地籍に戻るべきであったその土地が何らかの理由のため元城屋町の地籍となった経緯があるのではなかろうか。
写真14:地点チより東方向
写真15:地点チより西方向
三ノ堀は通りを横断していたが、現在は水路としては通りによって東西に分断されており、各々大工町の通りの溝へ合流している模様。
地図3


写真16:地点リより西方向


これより先は東白木町まで開渠となり、比較的往時の面影を残している部分である。大工町の通りを横断した後、細工町二丁目の北端に沿って北曲。疊町の北縁に沿って再び屈曲し、流れを西に変える。



写真17:地点ヌより東方向
写真18:地点ヌより西方向




































細工町二丁目の法華寺北側、三ノ堀に沿って疊町が細長く東に伸びているのがお判り頂けるだろうか。この部分は先に述べた元城屋町二丁目の大工町への喰込み部分とほぼ同じ幅であり、かつての三ノ堀と土手の敷地なのではなかろうか。


写真19:地点ル
写真20:地点ルより東方向

写真21:地点ルより西方向
このまま三ノ堀は疊町北縁を西へ向かい、東白木町北縁に沿って南曲する。道路沿の部分は蓋がされているものの、再び西曲する直前で開渠となる。
写真22:地点ヲより東方向

写真23:地点ヲより西南方向
写真24:地点ヲより南方向
写真25:地点ワ
堀は国立病院に至る通りの手前で南曲し、歩道地下の暗渠となる。
地図4

写真26:地点カより東方向
写真27:地点カより南方向
堀は通り(山の手通)を横切って東白木町と西白木町の堺を為しているが、武田通での例同様、水路としては通りの南北に分断されている模様。
写真28:地点ヨより北方向
写真29:地点ヨより南方向
三ノ堀は通りを横断した後再び開渠となって南進し、妙詮寺北側で西曲し、西白木町の横町に突当るまで西進する。


このまま西白木町の横町の通り沿いに南進するが、歩道部分であるため蓋がされたところが多い。
写真30:地点タより東方向
写真31:地点タ
写真32:地点タより南方向
元三日町との堺で西曲し通りを潜り、元三日町北縁を西進するものの、暗渠化されて道と同化している。
写真33:地点レより北方向
写真34:地点レより西方向
地図5
写真35:地点ソ

写真36:地点ツより西方向

写真37:地点ネより東方向
写真38:地点ネより南方向
堀は元三日町の西角に沿って南曲し、そのまま流れは相川へ注いでいる。これが三ノ堀西端である。



写真39:地点ナ

甲府城と御堀


甲府城の御堀と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
殆どの読者の皆さんは御城の南東側、桜町一丁目に面したあの御堀を思い浮かべるのではなかろうか。

下に示す地図を見て頂きたい。


御城そのものを囲む内堀のみならず、その外側に二ノ堀、三ノ堀が周らされていることがお判りになるだろうか。皆さんが想像された「御堀」は、内堀のほんの一部なのである。

 各々御堀の内側には土手が築かれ、強固な防御の構えが取られていた。

内堀の内側は言うまでも無く御城であるが、二ノ堀内側は武家地であり、二ノ堀外側が町人地であった。

内堀の内、御城の北側部分は明治期の甲府駅開業のため喪われ、御城の西側及び東側部分に就ても、昭和初期の城内への県庁移転に伴う埋立により喪われ、御存知の通り、南東部が現存するのみである。

二ノ堀は、明治初期に旧郭内が開放された際に大きく埋立がなされた。北部及び東部に就いてはほぼ完全に埋立がなされたものの、西側部分は極々小規模ながら、完全な水路としての機能を残し、往時の面影を今に伝えている。

 三ノ堀は、二ノ堀同様、明治初期に大きく埋立がなされたが、上府中では大半が小規模な水路として残る。下府中北部及び東部に就ては埋立てられた所が多く、水路としての機能は殆ど喪われている。一方南部に就いては濁川の一部であったことも相俟って、ほぼ往時そのままの規模で現存する。

1/28/2015

巻頭言

 大学2年生の冬、図書館にて甲府駅や同機関区の資料を漁っていた時のことである。ふと、その古い地図上に示された見慣れない地名群、橘町だの、日向町だの、水門町だのに目が留まった。甲府は遠く武田時代より続く城下町であるという知識こそあれ、今一つそんな実感も無しに大学と下宿とを往き来する毎日であった。何故か。一つには、ひと目で成る程ここは城下町だと判る街並が無いこと、もう一つに、聞けば成る程城下町だなと判る町名が無いからである。前者に就ては、甲府大空襲の件は知っていたし、戦災抜きにしても開発で旧い街並など容易に喪われることをを考えれば現状の景観は想像に難くないものだと納得が行ったが、後者に就ては納得が行かなかった。郷里の県都こと静岡市などは国鉄や私鉄の駅前の所謂"まちなか"の一等地に呉服町、両替町だの鷹匠町だのの如何にもな町名が存在しているのである。静岡とて度重なる大火や戦災のために街並みが灰燼に帰していることは変わりないのにも関らず、この違いは一体何か。皮肉なことに、由緒ある地名が悉く消滅せしめられていたからこそ関心を懐いた次第である。

 その後は本来の鉄道関連資料蒐集を大きく逸脱し、甲府旧市街の旧町名を調べ上げることに傾注したのであるが、一つ問題になったのが、或る町名がさし示す範囲、即ち"町域"は曖昧な範囲でしか判明しなかったことである。今日以上にデフォルメや不正確な部分が多い旧い地図では尚の事である。勿論、この程度の知識であれ社会生活上は何の問題も無い。(否、そもそも中高年層以上にしか通じない旧い町名を調べて現代の社会生活上不都合こそ多くあれ、というご指摘はこの際置いておいて)
現に、実家の町内会の領域は一体何処から何処までなのかを正確に答えることなど出来ないし、隣の町内など尚の事である。恐らくこれは甲府在住民とて変わらぬ感覚であろう。 しかしながら、或る地名がさし示す範囲は必ず明確な領域を持って存在するものであり、隣接する地名との境目、堺には、内と外とを隔つ"何か"が存在するのである。住民は、その"何か"を意識的にしろ無意識的にしろ感じて生活しているのではなかろうか。

 調査を進めるに連れて判明したことに、街区方式による大々的な町名町域変更が為された後も、多くの町では旧来の自治会(註 甲府では町内会を自治会と称するの)がそのままの領域を以て維持されていたり、或いは、一見新街区名に合せた名称の自治会が結成されていたとしても、単に旧◯◯町自治会が改名しただけのもの、◯◯町と☓☓町自治会とが合併しただけのものなど、旧来の境界線は維持されている例が多く見られた。表面上、悉く消滅せしめられたかに見えたかつての町域は、詰まるところ、元の領域を残して強かに生きづいていたのである。

 現代に生きる我々、殊に都市生活者の我々は、合理化されたな表層面に暮らしており、しかして時にその表層下より顔を出す過去の層面に出くわし、幾許かの違和感を覚えつつもそれを深追いすることはまず無い。或いは、地域共同体、即ち町内や部落内の過去の層面に関するミクロな知識や感覚は持ちあわせていたとて、隣接する地域のそれや、よりマクロな規模に就てのそれは持ち得ないことが殆どであろう。このブログは、甲府旧市街という限られた領域に関してその全容を明らかにするものである。

 この資料は単なる懐古趣味に留まるものではなく、広く郷土史研究の一環として活用せられるべきであり、郷土敎育・研究の資料としてのみならず、単に街歩きを好む人への資料として、或いは衰退著しい甲府市街再興の一助たり得んことを望むものである。