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1/28/2015

巻頭言

 大学2年生の冬、図書館にて甲府駅や同機関区の資料を漁っていた時のことである。ふと、その古い地図上に示された見慣れない地名群、橘町だの、日向町だの、水門町だのに目が留まった。甲府は遠く武田時代より続く城下町であるという知識こそあれ、今一つそんな実感も無しに大学と下宿とを往き来する毎日であった。何故か。一つには、ひと目で成る程ここは城下町だと判る街並が無いこと、もう一つに、聞けば成る程城下町だなと判る町名が無いからである。前者に就ては、甲府大空襲の件は知っていたし、戦災抜きにしても開発で旧い街並など容易に喪われることをを考えれば現状の景観は想像に難くないものだと納得が行ったが、後者に就ては納得が行かなかった。郷里の県都こと静岡市などは国鉄や私鉄の駅前の所謂"まちなか"の一等地に呉服町、両替町だの鷹匠町だのの如何にもな町名が存在しているのである。静岡とて度重なる大火や戦災のために街並みが灰燼に帰していることは変わりないのにも関らず、この違いは一体何か。皮肉なことに、由緒ある地名が悉く消滅せしめられていたからこそ関心を懐いた次第である。

 その後は本来の鉄道関連資料蒐集を大きく逸脱し、甲府旧市街の旧町名を調べ上げることに傾注したのであるが、一つ問題になったのが、或る町名がさし示す範囲、即ち"町域"は曖昧な範囲でしか判明しなかったことである。今日以上にデフォルメや不正確な部分が多い旧い地図では尚の事である。勿論、この程度の知識であれ社会生活上は何の問題も無い。(否、そもそも中高年層以上にしか通じない旧い町名を調べて現代の社会生活上不都合こそ多くあれ、というご指摘はこの際置いておいて)
現に、実家の町内会の領域は一体何処から何処までなのかを正確に答えることなど出来ないし、隣の町内など尚の事である。恐らくこれは甲府在住民とて変わらぬ感覚であろう。 しかしながら、或る地名がさし示す範囲は必ず明確な領域を持って存在するものであり、隣接する地名との境目、堺には、内と外とを隔つ"何か"が存在するのである。住民は、その"何か"を意識的にしろ無意識的にしろ感じて生活しているのではなかろうか。

 調査を進めるに連れて判明したことに、街区方式による大々的な町名町域変更が為された後も、多くの町では旧来の自治会(註 甲府では町内会を自治会と称するの)がそのままの領域を以て維持されていたり、或いは、一見新街区名に合せた名称の自治会が結成されていたとしても、単に旧◯◯町自治会が改名しただけのもの、◯◯町と☓☓町自治会とが合併しただけのものなど、旧来の境界線は維持されている例が多く見られた。表面上、悉く消滅せしめられたかに見えたかつての町域は、詰まるところ、元の領域を残して強かに生きづいていたのである。

 現代に生きる我々、殊に都市生活者の我々は、合理化されたな表層面に暮らしており、しかして時にその表層下より顔を出す過去の層面に出くわし、幾許かの違和感を覚えつつもそれを深追いすることはまず無い。或いは、地域共同体、即ち町内や部落内の過去の層面に関するミクロな知識や感覚は持ちあわせていたとて、隣接する地域のそれや、よりマクロな規模に就てのそれは持ち得ないことが殆どであろう。このブログは、甲府旧市街という限られた領域に関してその全容を明らかにするものである。

 この資料は単なる懐古趣味に留まるものではなく、広く郷土史研究の一環として活用せられるべきであり、郷土敎育・研究の資料としてのみならず、単に街歩きを好む人への資料として、或いは衰退著しい甲府市街再興の一助たり得んことを望むものである。

1 件のコメント:

  1. こんにちは。
    株式会社ニュースコム マチコレ!編集部の益田と申します。
    先日は「Matto Cileci 旧町名を復活させたい」にコメントいただきありがとうございました。
    ありそうでなかった貴重な資料、大変参考になります。
    10月28日発行のマチコレ!11月号誌面にて、こちらのブログと甲府市街町堺図を紹介させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

    この件に際し、メールでのやりとりは可能でしょうか?
    一度ご連絡いただけますと幸いです。

    info@machikore.com

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